アースデイの歩み─1990年から2000年まで

1990年、市民運動全国センター代表の須田春海さんは、アースデイ・インターナショナル(アースデイ・ネットワークの前身)の「アースデイを日本で」という呼びかけに応じ、全国で地球のために活動しようとしている人たちのネットワーキング、何か始めようとしている人の情報交換のお手伝い、アースデイを含む環境問題の活動情報を紹介するニュースレターを発行する「アースデイ◎1990←→2000◎日本・東京連絡所」を設立し、2000年までの10年間の活動によって、アースデイを全国に広めていきました。10年間のみの活動と限定して始められた「アースデイ日本連絡所」は2000年のアースデイを最後に解散しましたが、アースデイ・イベント、アースデイ・アクション、アースデイ・キャンペーンや提言、出版等多彩な活動によって、市民、自治体、政府の環境問題に対する関心を呼び起こし、各地環境運動家、環境団体の交流や連帯を促進し、アジア各国・世界各国との連携を生みだし、連絡所が解散した現在でも毎年、日本各地でアースデイが続けられ、新たに日常的な環境活動を行うNGOを形成する等、その功績には計り知れないものがあります。

*以下の記事は、アースデイ2000企画・運営委員会発行『アースデイ記録集1999─2000』からの抜粋です。


アースデイの誕生・・・1970アメリカ

 1970年4月22日、アメリカで行われたアースデイを組織したのは当時スタンフォード大学の全学学生自治会委員長をしていたデニス・ヘイズ氏。全米の学生や地域社会の住民など、なんと2000万人以上もの人々が参加し、環境への関心を何らかのかたちで表現したのです。
 例えば──
○ニューヨーク市では市長が5番街からすべての自動車を締め出し、サンフランシスコでは10万人もの人びとが「エコロジーフェア」に繰り出しました。
○連邦議会は、議員たちがそれぞれの出身地で環境問題についての討論会などに出席できるよう正式に休会となりました。
○3つの商業テレビネットワークは全米各地のイベントの実況中継を行い、公共放送は一日中アースデイの特別番組を編成。さらに、多くの全国紙・地方版は環境問題の特集記事を組みました。
○自動車労連は、スモッグの出ない車を呼び物にして、セントルイスのダウンタウンをパレードしました。
 このほかにも、実に多彩なアクションが展開されました。
 このアースデイをきっかけに、その後も引き続き人びとの関心が環境問題に払われるようになり、環境保護庁設置をはじめ大気浄化法、水質浄化法などさまざまな環境法が整備されたほか、環境問題についてマイナスの態度を取り続けていた議員が選挙に落選したりしました。その他、超音速旅客機の開発がストップし、軍は東南アジアにおける枯れ葉剤の使用を禁じられる等、アースデイの影響は、あらゆるところに及んだのです。日本に歩行者天国ができたのも、このアースデイがきっかけです。

やってみた日、それがあなたのアースデイです。

 環境問題は、ある意味では人とそれ以外の生物、人と地球、人と人のコミュニケーション問題ともいえます。
 そして私たちはだれも、この地球と100%自分を主体として関わっています。それは、家族や友人、大切な人たちとの関係に似ています。
 だからこそ、アースデイのリーダーシップをとるのは、私たち一人ひとりなのです。
 アースデイには、代表も規則もありません。だた、次の2つのことを心がけていきたいと思っています。
(1)アースデイは、民族・国籍・信条・政党・宗派をこえて、だれもが自由にその人の方法で、地球環境を守る意思表示をする国際連帯行動です。
(2)アースデイは西暦2000年にむけて、毎年続けます。
 すべての人が同じように、かつまったく自由に起こせる、世界初のそしてたぶん唯一のアクションがアースデイです。
 共通のアースデイマークを使ってもらうこと、みなさんの活動を互いに知らせていただくこと以外、「〜しなければならない」という制約はありません。さっそく今から、自分と地球とそこに住むたくさんの生命との対話、アースデイアクションを起こしてください。

●アースデイ1990 地球市民の誕生

 カリフォルニアから世界中に呼びかけられた初めてのアースデイで、日本では全国200カ所、1000をこえるグループが参加。3万人が参加した東京・夢の島のフェスティバルをはじめ、日本各地でシンポジウム、記念植樹、ごみ拾い、フリーマーケット、手作りハガキや廃食油のせっけんづくりの実演と、自由な発想でバラエティにとんだ楽しいイベントが催されました。
 このアースデイをきっかけにライフスタイルの見直しと地球にやさしい生活を提案した「地球を救う133の方法」、企業の環境に対する責任と配慮を考えた「バルディーズ原則(現、セリーズ原則)」が紹介されるなど、具体的な動きも活発になりました。
 1990年4月22日のアースデイは、世界141の国・地域で2億人が参加する一大イベントとなり、それぞれの国・地域・個人にとって、これから10年、自分たちのアースデイをつくっていくための希望に満ちたスタートになったのです。

●アースデイ1991 多彩で多様な広がり

 90年のアースデイは、札幌・中島公園でのフリーマーケット、東京・日比谷でのコンサート&環境テント市・パネル展、香川でのドングリの種まきなど、各地でさらに多くのグループが多彩でユニークなイベントを開催しました。
 そうした中で、生まれてきた新しい動きがありました。各地で環境運動をしていた人たちがお互いに手を取りはじめたのです。その結果、個人で取り組むよりも、より効率的に、効果的に、グロ−バルに問題と接することができるようになりました。この情報交換とネットワークづくりを少しでもサポートしたいと、アースデイ時期のみだったニュースレターを年間を通じて発行するようになりました。
 他にも流通業界にアースデイへの協力を呼びかけるキャンペーンや、環境教育のリーフレット、身近でできることをイラストにしたハガキの作成、92年のアジア・アースデイに向けた7カ国語のアピール文の発表などが行われました。

●アースデイ1992 アジアとのつながり

 アースデイ3年目の1992年は、ブラジル・リオで地球サミット(UNCED)が行われたこともあり、アースデイを行う人々の中で、変革するものの対象が、自分自身のライフスタイルから、様々な側面へと広がっていったといえます。
 連絡所からも2つのテーマ「アジア」と「環境自治体」を提案、積極的にキャンペーンを展開しました。
 「アジア」というテーマでは、南北問題の問題点とアジアとの関わりを提案した『豊かさの裏側』を発行し、東京・代々木公園で行われたアジア・フェスティバルでは数万人の人が参加し、日本にいながらアジアとどのような関係をつくっていくかを考えるきっかけとなりました。「環境自治体」というテーマでは、自治労との協力で「環境自治体づくり」のキャンペーンをすすめるほか、今では恒例となった環境自治体会議が北海道・池田町でスタートしました。
 さらには、市民による自主的な政策づくりへの挑戦として「環境法制検討市民委員会」が発足し、あるべき環境基本法の姿を求めて、各政党との話し合いや専門家を招いての勉強会など精力的な活動をはじめました。

●アースデイ1993 社会の仕組みへの参加と海外とのつながり

 92年夏から活動をはじめた「環境法制検討市民委員会」は、2月に環境基本法市民草案を発表し、春からはWWF、連合とともに「環境フォーラム・ジャパン」を発足させ、各地での集会を通じて様々な立場から環境基本法に対する議論を深めるとともに、各政党に対するアンケートを実施するなど市民の総意をいかした法制定を求めるキャンペーンを基本法成立まで展開しました。
 また、地球サミットでの宿題とされたアジェンダ21の自治体版ローカル・アジェンダの作成をはじめ、ますます環境自治体の実現が迫られたこともあり、引き続き「環境自治体」をテーマとし、沖縄県・読谷村で開催された第2回環境自治体会議では、アジアなど海外との関係に目をむけた幅広い議論がなされました。

●アースデイ1994 地域で集う、お互いを知る

 年明け早々の郵便料金値上げで迎えた94年は、郵政大臣との話し合いや、郵政省と共同で封筒なしでニュースレターを発送する実験を行うなど、市民活動を支える社会制度をつくろうというアクションで始まりました。
 この年の共通テーマは「討論」。地球環境、開発、平和、戦争、人権などについて、改めてお互いの立場との意見を知り合おうというものです。各地との連絡役に力点をおいてきた連絡所が、初めてイベントに挑戦し、アースデイイヴには、アジアのアースデイ仲間そしてアースデイ・インターナショナルと日本のNGOが東京に集まり、各地域の様々な問題や今後の展望を議論しました。
 アースデイ当日は、「地球に誓おう!市民国会」として、NGO、行政、政治、経済、協同組合、宗教団体、芸能界など各界の代表と。生物種や自然の代理を市民と研究者がつとめる多彩な参加者が、立場をこえて地球への誓いをのべました。

●アースデイ1995 2000年に向けての折り返しの年

 2000年への中間点である1995年は、阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件と社会的不安の中で始まりました。アースデイはどうなるのかと心配されましたが、地球市民の祭典を成功させようという大勢の人々により、ますます多くのアクションが各地で行われました。大震災で深刻な被害を受けた兵庫県西宮市でもアース・ウォッチング・クラブが中心となってアースデイ行動'95震災復興子どもフォーラム「よみがえれ!にしのみや 子どもたちからのメッセージー大震災から学んだこと、伝えたいこと」が開かれました。
 この年は、戦後50周年という節目でもあり、夏には韓国の市民団体の呼びかけに応じ、ソウルで開かれた「アジア・太平洋市民社会フォーラム」に参加し、日本のNGOとしてアジア太平洋地域における不戦への決議を発表しました。
 また、東京都日の出町のごみ処理問題を巡り、連絡所では「市民合同調査団」の結成を呼びかけ、市民公聴会を開催。当事者が一同に会し、熱心な議論が交わされました。

●アースデイ1996 地球にやさしく、政治にきびしく

 1996年は、95年末の「市民公聴会」を受け、多摩地区首長、廃棄物広域処分組合、青島都知事。厚生省の4者に対する提言書の作成で幕をあけました。
 アースデイ当日には、連絡所が中心となって「地球にやさしく、政治にきびしく こんな法律をつくろう!アースデイ市民会国会」を開催しました。ここでは、北海道から沖縄まで、文字通り日本全国で深刻な環境問題と直面する地域から多彩な顔ぶれの人々が一同に会し、日本の市民が直面する環境問題を確認しあうと共に、解決方法を提案しました。
 そして毎年開催されてきた環境自治体会議が、第5回の斜里会議を受けて、9月に恒常機関として発足。これまで培ってきたネットワークを活かして、さらなる具体的な連携を目指した活動を開始しました。
 また97年12月に開催される温暖化防止京都会議(COP3)に向けた動きも徐々に始まり、年末には連絡所のある市民運動全国センターに気候フォーラム東京事務所が置かれ、1年間、互いに協力して活動していくことになりました。

●アースデイ1997 COP3開催、CO2削減に向けて

 96年末に京都で結成された気候フォーラムを中心に、97年は温暖化防止京都会議(COP3)に向けて多くのNGOが一斉に動き出しました。各地のアースデイでも、温暖化問題をテーマにしたアクションが多く見られました。アースデイフェスティバル'97 in 東京では、温暖化防止をアピールする日本で初めての約500台の自転車によるパレードを都心で行い、反響を呼びました。
 夏ごろからは、連合、WWF・J、アースデイで構成される環境フォーラム・ジャパンが事務局を担い、各地の市民団体と協力して、ストップ!地球温暖化「列島縦断エコリレー」を全国6コースに分かれて展開、全国1474自治体の首長から温暖化防止に努力する旨の署名を集め、最終地点のゴールとなった京都市役所前でCOP3議長の環境庁長官に手渡しました。

●アースデイ1998 温暖化防止社会をめざして

 97年末のCOP3とエコリレー開催をうけ、温暖化を防止する社会を実現するアクションを起こすことが98年の課題でした。
 最初の取り組みが、アースデイ "温暖化防止" 市民国会でした。ここでは、地球温暖化の影響を再検討すると共に、日々の暮らしで温暖化防止に取り組む市民から、誰にでも実践できる具体的な方法を提案してもらいました。そして、"温暖化防止に関する市民立法を進める会" がまとめた「地球温暖化防止法案」を提案し。政府担当者と市民団体との討論を行い、500名を超える参加者により趣旨採択を行いました。
 また環境フォーラム・ジャパンと環境自治体会議が協力し、自治体の温暖化防止へのグローカル・アクションを提起。その第一段階として、エコリレーで署名をした約1480の自治体首長に対して、「グローカル・アクション展開のための環境政策実施状況調査」を実施。9割以上の自治体首長からの回答をもらい、グローカル・アクションにつなげる貴重な資料となりました。

●アースデイ1999 重点目標を掲げ実現をめざす

 新しいミレリアムを翌年に控え、環境NGOだけでなく、幅広い分野のグループの参加を得てアースデイ2000を盛り上げるため、アースデイ2000企画・運営委員会が設置され、名称を改めたアースデイ2000日本連絡所がその事務局を務めました。
 アースデイ2000キャンペーンの重点目標として▽フロン回収を義務づけよう!▽自然エネルギー買い取り法をつくろう!▽「クルマを使わない日」をつくろう!ーなどいくつかの目標を掲げて関係するグループと協力して、その実現を目指しました。
 その一環として、アースデイ2000に渋谷でカーフリーゾーンを実現させようという計画を進めましたが、様々な障害があり、実現はしませんでした。しかし、この過程で、交通問題の市民団体が幅広く連携する必要性が認識され、ネットワークづくりの気運が盛り上がりました。

●アースデイ2000 環境の21世紀のために

 新しい1000年紀の幕開けを飾るアースデイ2000は、4月22日を中心に世界中で繰り広げられました。米国のアースデイ・ネットワークに寄せられた参加表明は、181カ国4500グループに上がりました。
 日本では約160カ所で、多彩なイベントなどが開催されました。東京・日比谷公園ではアースデイ2000TOKYOが開催され、数寄屋橋などの繁華街を通る初の日韓同時自転車パレードが行われました。
 また、アースデイ海外チームが中心となって、アジア共通アクションとして、簡易測定キットによる二酸化窒素の一斉測定や共通バンダナの着用などを行い、環境問題に取り組むアジアのグループとのつながりを深めました。
 IT革命時代を象徴するアースデイ2000イベントとしては、インターネットを使って米国のアースデイを中継したりしたアースデイ2000@原宿が注目を集めました。
 5月には、熊本県水俣市で第8回環境自治体会議が盛大に開催されました。会員自治体の共通目標の正式設定が確認されたほか、プロジェクトのテーマを含む21の分科会で参加者が議論を深めました。会議自体も総論レベルでの話し合いの場から、各論の実践を積み重ね、互いに検証する場へと変わり始めています。
 1990年から2000年を活動期間としてきたアースデイ2000日本連絡所は、その役割を終えて年末までに解散しました。
 しかし、連絡所の機能の一部は、いくつかの新しいグループに引き継がれます。
 アースデイ海外チームは、ASAP21(Action for Sustainable Asia Pacific 21)を結成、日常的なアジア各国との連携を強化します。
 また、メディアやインターネット上のアースデイを通じてアースデイを広げていく組織として、アースデイ・フォーラムも結成されます。
 また、各地から寄せられるイベント情報などを年間を通じてインターネットで紹介していくエコクリップも誕生しました。
 さらに、アースデイを東京中に広げていくグループとしてアースデイ東京が年内には結成される予定です。
 21世紀のアースデイは、新しい仲間を加えてさらに大きな広がりを持っていくでしょう。

たしかな変化を生みだそう!

地球環境への人びとの関心はこの10年で飛躍的に高まった。そのキッカケの一つは間違いなく1990年のアースデイ(地球の日)であった。あれから10年、全国で多様な自発的行動が続いている。ブラジルでの会議(1992年)、京都での集まり(1997年)も行われ、国際的なルールにおいても少しずつ動き出した。(2005年2月16日京都議定書発効)
イベントもさかんだ。アースデイ(地球の日)と名乗らなくとも、地球環境を考える多彩な催しが実に様々な人びとによって日本各地で行われている。
そのなかで、なぜアースデイ(地球の日)か、ということを考えてみたい。それは1970年4月22日がなぜアースデイなのかを考えればすぐ回答が出る。地球環境を憂慮するアメリカ市民が、腰の重いアメリカの連邦政府を動かし、環境保護庁を設立させ、各環境法を制定させることに成功した記念日なのだ。
アースデイは、あらゆるものを排除しない。異なった考え、異なった文化を受け入れ、むろん企業市民の積極的参加を歓迎する。しかし、その原点はあくまで市民の行動であり、その行動が社会の変革に結びつくことだ。
2000年アースデイは、20世紀を<環境破壊の世紀>とすれば、21世紀を<環境の世紀>とするための大切な集結点である。それだけに、環境の世紀の方向を提示し、旧来の社会から脱出する明確な行動が求められる。
私たちの実践によって次の歴史のページがはじまる。そんな「たしかな変化」をもたらしてこそ成功と言えるのであろう。

2000年のアースデイを振り返って
須田春海

 地球環境問題への人びとの関心は、この日本でも10年間で飛躍的に高まった。各地のアースデイ・アクションがこの変化に寄与したことは疑う余地は無い。
 1990年当時、リサイクル・マークの使用や再生紙の定義について、はじめて関心を持ち。関係者と論争したのが懐かしい。『地球を救う133の方法』は大ヒットであったがそれだけに批判も受けた。リサイクル至上主義ではないかというものだ。批判の一面は当たっている。経済システムや社会システムの改革の道筋をつけないと矛盾を増幅させることがある。1、再生紙を利用しようと呼びかけ紙の回収率は高まったが古紙は利用されず堆く積まれた。2、ビールはカンよりビンでと訴えたが市場はカンに席捲された。こういう例は他にもあろう。善意がシステムに反映されない事例である。
 2000年のいま、人類の生存にとって大問題は何かと問えば、問題群の一つに地球環境問題が挙げられる事は間違いない。しかし、この日本にあって解決の具体策は依然霧の中であった。
 当初、2000年のアースデイはこの霧を晴らすことに全力を傾けようと」努力した。
 作業は 、i)1990年代の10年間に何をなしえたかの総括
     ii)21世紀、短期には2000年代の最初の10年に何をなすべきかの展望
     iii)具体的なプログラムとプロジェクトの確定

 地球環境への関心は高まっていても、具体的改革の道筋がつくれないのは、なんと言っても運動の力量が不足しているからである。アースデイ・アクションは市民による環境イニシアティブであるがゆえに全地球規模にひろがった。その原点に立ち返り突破口を模索しようと試みた。
i)の総括は各分野の第一線で奮闘する人々の強力を得て、2000年のアースデイの半年前に『地球環境よくなった?』としてまとめられた。まずは成功である。
ii、iii)は困難をきわめた。設置された企画運営委員会のなかに幾つものチームがスタートした。(1)アースデイをアジア特に中国にひろめるプロジェクト、(2)学校環境教育の現場のエンパワーメントを目指すチーム、(3)環境破壊の現状をリアルに伝えるため世界規模での写真集を作成しようと意気込むグループ、(4)2000年アースデイで初めて共通目標のようなものを設け状況を突破する方法を模索するチーム。(5)これらと並行して財政の確立を図るチーム。
 2000年を目指し一年前に生まれた企画運営委員会は、各分野の運動の担い手に参加していただくとともに、各界の代表者にキャンペイン委員に就任していただき、歴代の環境庁長官など政治家を顧問にむかえた。10年前と比べ陣容は格段の差がある立派なものとなった。ただしアースデイ全体を取り巻く客観条件は厳しさを増していた。経済不況が長期化し環境への関心が借景に下がってしまっていた。報道機関は各種の2000年イヴェントに目を奪われ、2000年アースデイ企画もその亜種という把握から一歩も出なかった。過剰気味であった1990年との最大の差であった。また、それぞれのNGOも各自の運動課題に追われアースデイそのものに日本では求心力が欠けた。
そんな中での悪戦苦闘であった。
(1)のプロジェクトは若いボランティアに支えられ動き出した。アジア共通のアクションとして、大気汚染の測定と自転車の同時パレードが企画され、まがりなりにも実現をみた。予算の制約で、測定器具を手作業でアジア各地の市民に送る作業がなされた。長い目でみれば確実に各地に何かの変化を生むであろう。
(2)(3)のプロジェクトは何度かの討議と検討を経て、中断された。原因の多くは予算の無さであったのだろう。
(4)はまずパンフレットづくりから始まった。I. フロン回収義務化、II. 自然エネルギー促進法の制定、III. クルマの無い日を実現する、IV. 化学物質フリーゾーンをつくる、という4つの共通目標のうち、I、II、IIIのパンフが印刷された。それとともに、2000年4月22日のイヴェントの企画も固まりだした。ただ、アースデイの力量不足から生まれた誤算もあった。各テーマの運動にとってアースデイを活用する事が不可欠とは必ずしも認識されていなかったことが一つ。さらに企画運営委員会が全国キャンペインを展開するのではなく結果として、東京イヴェント中心にならざるを得なかったことである。
(5)の財政は困難をきわめた。企画運営委員会のなかに企業部会がうまれ、富士ゼロックス、安田火災、NECなどの積極的協力もえられたが、目標には遠く、初めて地球環境基金の交付を得て、やっと最低限のことを賄うというありさまであった。
 2000年4月22日ー23日、両日とも晴天に恵まれた。日韓同時自転車パレードも無事行われた。大きな赤字も出さずに済んだ。その限りでまずは成功した。しかし何かが問われた。アースデイとは何か、という根本的問いである。
 事態を市民のパワーで変革すること。アースデイの前と後で明らかな変化を生むこと。これが本当の成功である。地球環境問題を解決するという、途方も無い大きな課題に比べ私たちはあまりに非力であった。ただ、この無力感を噛み締めている人が一人ではないということを強調したい。いま、この感覚を共有する人たちは確実に増えてきた。この事実に希望を託し、2000年代のアースデイの発展をめざしたいものだ。


●デニスヘイズ氏へのインタビュー
2000年4月10日 中国にて by 水野さん@アースデイ・ジャパン

 
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アースデイ(地球の日)は4月22日、毎年Earth Dayの期間には世界各地で持続可能な社会を表現する、自由なイベントやアクションが行われています。
アースデイJPでは、多様なコミュニティーが開催する、日本各地のアースデイー情報を発信しています。

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